団員ブログ
2023年2月4日(土)演奏会ブログ
今回の演奏会も何とか終えることが出来ました。指揮者より、まずはご来場いただいた皆様に厚く御礼申し上げます。
昔学生オーケストラにいた時、ヴァイオリンの先輩が「ブラームスの3番はアマチュアが手を出してはいかん曲だ」と言っていたのを今改めて思い出しています。ブラームスの曲は旋律、伴奏、及び無音の部分(!)がモザイク状に相互補完的に組み合わせてあり、しかもアクセントの位置が弱拍にあることが多いため、どこかがずれるとテトリスのようにあっという間にゲームオーバーとなる危険性を孕んでいます。更に始末の悪いことに、演歌っぽい旋律(3番の第3楽章はまさにそうですね。ブルックナーもそういう所がありますが)がしばしば現れるため、往々にして伴奏とかみ合わない結果となります。以前の当ブログで「石川さゆりをやった後にブラームスをやる困難さ」に言及した人がいましたが、演歌は歌い手がわざと伴奏の拍節から外したフレージングをするところが肝なので、厳格なリズムの組み合わせを要求するブラームスとは、見かけが似ているところがあっても、演奏者は真逆のことをしないとなりません。
ニールセンの1番(1892年)はブラームスの3番(1883年)の影響をもろに受けたと言っていい曲で、各パートのモザイク状の組み合わせ、シンコペーションの多用は勿論、曲頭のフレーズが終楽章のコーダで再現される、音階の第3音を半音上下させる(ブラームスならA⇔As)ことで長調:短調を頻繁に入れ替える等、多数の共通点がありますが、これは即ち(ブラームスと同様に)そこら中に地雷が埋まっているということでもあります。
更に言うと、ニールセンの第1楽章の展開部はフランクの交響曲(1888年)にそっくりですが、両者に共通しているのはオルガン的な分厚い和声が、エンハーモニックの多用により頻繁に遠隔調に転調していくところなのですが、音が変わる縦のタイミングがずれるとあっという間にただの混沌と化してしまいます。
次回はドヴォルザークの8番(1889年)ですが、これがまたブラームスの4番(1885年)の影響を強く受けた曲で、毎度頭の痛いところではありますが、当時(19世紀末)の作曲家がいかに同時代の曲を研究していたか、またブラームスの影響が上記の二人以外にもシベリウスやストラヴィンスキー等々、更には戦後のミニマル・ミュージックまで及んでいることを考えるとまことに興味深いものがあります。
最後に、ブラームスの3番でよく引き合いに出される”Frei aber froh”(「自由だが喜ばしく」ブラームスのモットーといわれる)言葉がありますが、aber(しかし)という逆接となっているところに意味がある気がします。合奏において完全な自由は無秩序でしかなく、形式を理解し、リズムや音程を守ることが却って表現の自由さを保証し、音楽の喜びを生みだすのだと思います。